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松本アイスカンパニー書店



なわてのお祭り


作 松本アイス
絵 エマ・ブラウニー


夕焼けが落ちてきました。
私はしゃがみこみました。帰り道もわからなければ、行先もないのですから。なんだか、あのカエルが恨めしいような気がしてきました。カエルを追いかけたりして、こんなことになったんですから。私はしゃがみこんだまま、靴の上から自分のつま先をいたずらにいじっていました。
カエルに会いたい。
いますぐここに出てきてもらって、筋道をつけてもらわないことには、だれがこの責任を取ってくれるというんでしょう。私はひとりぼっちを楽しんでいたつもりだったのに、ひとりぼっちが辛くてたまりません。
それでも、いつまでもこうしているわけにもいきませんから、私は手持ち無沙汰に、トボトボとお教室の看板のところまで歩いて行きました。そうか、ピアノのお教室か、とわかるところまで近づいてくると、行き止まりだと思っていたブロック塀の右手に、道が続いているではありませんか。これまで通って来たどこより細い、狭い道です。その道は、すぐにまた左へ折れました。ひとが一人通るのがやっとでした。私は不安ながらも、進むべき道が続いていることが嬉しかった。ほら、私の脇に、えらそうにせせり立つブロック塀をごらんなさい。塀の向こうのだれかの庭から、花をつけた枝がこちらへ向かってこぼれ落ちてきそうではありませんか。それに、こう狭くて曲がり角ばかりたくさんある道というのも、おもしろいものです。だって曲がり角というのは、本当にワクワクさせるものです。曲がった先には、何かすてきなものが待っているかもしれない。すてきなひとが歩いてくるかもしれない。
いちばん良いのは、またあのカエルが現れてくれることです。
胸の中に、ふたたび遠くブラームスが聞こえだした頃、夕焼け空は暮れる支度をはじめました。すると、街にはだれもいなくなったはずなのに、ちらほらと灯りの漏れる店を見かけるようになりました。それから、カチャカチャと食器の当たる小気味の良い音。換気扇のまわる音。居酒屋や、レストランが、開店の準備に忙しくしているようすが、石畳の上に楽しげに転がり出てきます。
気がつくと、また例の袋小路へ来ていました。
だけど私は、もうしゃがみこんだりはしません。だって、あのピアノのお教室のところまで行けば、道はまた細く、狭く、右手に続いているのですから。
そんな調子で、もう何度同じことを繰り返したでしょうか。
* * *
袋小路に、突風が吹きました。
そして、雨が落ちてきました。
私はなぜか、赤い傘を持っている。頭の上で、傘に落ちる雨のバラバラいう音がいよいよ勇ましく聞こえます。だんだん、目の前も激しい雨に遮られてよく見えなくなってきました。
私はそれでも歩きつづけました。石畳の上を、落ちてくる雨粒が強く叩いては、はじけとび、頭の上ではバラバラバラバラ。
予感がする。
この角を曲がったら、きっとだれかいる。
私はそのひととすれ違うとき、どんな表情をしていようかと急いで考えました。
それとも、顔なんていっそ傘で隠してしまおうか。決めかねているうちに、曲がり角は迫ってくる。どちらにしても、雨はあまりにも激しすぎるので、私の目の前がよく見えないのと同じように、相手からも私の顔なんて見えないかもしれない。
曲がり角が、私の曲がるのを今か今かと待っている。私の予感と高揚は、ついに絶頂に達しました。
いよいよだ。
私が角を曲がりかけたまさにそのとき、もう一度、突風が吹きました。
私の傘は手を離れ、空中へ舞い上がりました。
傘がゆっくりゆっくり上へあがって行く。それから不思議なことに、雨も同様に、上へ上へあがって行く。私はその一部始終を、街灯のほの灯りの下で見ていたのですから間違いありません。雨はぜんぶ、薄暮の中に吸い込まれ、舞い上がった傘は赤い、無数の花びらになって泳いでいましたが、しだいに消えてなくなりました。
私は歩きつづける。ひと気のない、しらない石畳の路地を。
音もない、風もない、それから、時間もない。
ここがどこなんだか、今が何時なんだか、もうすっかりわからなくなっていたけど、私は、そんなことは気にも留めないでいるのでした。
夕方なんだろうか。どことなしに、色彩がぼやけているように感じるのは、きっと時間帯のせいなのです。
歩いて行く。ひと気のない、石畳の路地を。さっきから、一匹の猫に会った他には、だれともすれ違わない。
ちょっと前までの記憶をたどると、たしかに私は賑やかな通りを来ていたはずなんだけれど。まだ六月だというのに陽射しが強烈で、辺りのようすはあまりにも鮮明でした。車の往来がたくさんある大通りに立って、暑さに疲れてふと見やると、向こうのこんもりした山のほうからひと筋に、青い小川がこちらに向かって流れてくる。そうか、私の立っているところは、橋の上なのだ。川のほとりに立ち並ぶ、商店のこぢんまりとしたようすに惹かれて、私は大通りから川沿いへと道を折れたのでした。それから、小さな太鼓橋を渡って、古い商店街へ入ったと思う。
お祭りがありました。大勢のひとが楽しげに行き来する。音楽が鳴り、菓子の焼けるにおいがペッタリと顔にまといつきます。商店街は、その佇まいそのものが、まるで遠い過去の出来事のようでした。長々と並んだ平屋建ての、木造の商店が向かい合う真ん中に、スコーンと貫かれた石畳の、白いこと。白いこと。その商店街を歩くひとびとの、のろいこと。のろいこと。そんなことをボンヤリと考えながら、私はひと混みにつられて同じようにノロノロと進んでいました。
すると、どうでしょう。目の前の、無数の知らないひとの背中のなかに、どうも人間ではなさそうな、大きなみどりいろの背中がある。私の少し先を、何人かの人間をはさんで、大きなカエルが二本足で歩いていたのです。どうやら、今日はカエルのお祭りのようでした。カエルの置物にカエルの唄、道にカエルの絵を描く大道芸のひと。そういえばさっきから、カエルばかり目にしている。それにしても、あんなに背の高い本物のカエルが二本足で歩くとは、いったい世界はどうなっているんでしょうか。
もともと四つん這いになって跳んで歩くようにできているのでしょうから、二本足で立って歩く姿は、猫背といいますか、カエル背といいますか、あまり格好の良い姿勢ではありませんね。ガニ股だし。ただ、カエルの歩きようはどうも、意思を感じさせます。それは決まった時間に、行かなくてはならないところがあるひとの歩きようです。本心では少し気味が悪かったのだけど、私は彼の(彼女の)丸くてぬるっとしたみどりいろの背中を追って、ひと混みをかきわけて進むうち、こうして自分がどこにいるのかわからなくなったのでした。
何といっても、ひと混みが前に進む進みかたはあんまりノロノロしすぎているし、どういう訳か、カエルは自分の目のまえのひと混みを避けて進むのがたいへん上手なようで、スタスタスタスタ、ガ二股で行ってしまう。はじめのうちは、目を凝らすまでもありませんでした。だって、あんなに大きな二足歩行のカエルは目立ちますからね。夢中でカエルの背中を追ううちに、私は知らずしらず、いくつかの角を曲がったのでしょう。そこはもう、あの古ぼけた、お祭りさわぎの商店街では、いつのまにかなくなっていました。
カエルが、私からはずいぶん先へ行ってしまって、どこかの小さな店先を、首をかがめて入って行ったところまではわかっているのです。私はてっきり、古本屋に入ったものだとばかり思って、おそるおそる扉を開けてみたのに、中にはだれもいない。お客もいなければ、店主さえ見当たらないではありませんか。がっかりして、古本屋を出ました。そのときを境に、街のどこにも、カエルはおろか、人影ひとつ見当たらなくなりました。
* * *
そういう訳で、私はさっきから、この、世界が終わったみたいなガランとした石畳の路地を、ひとりぼっちで当てもなく歩いている。それなのに、ちっとも怖くなかった。それどころか、細い路地裏がいっそう細く、クネクネといくつも角を曲がりながら先へ続いていくようすを見ると、ワクワクすらするのでした。ことによると、ヒョッコリまたあのカエルが現れるかと思ったりもしましたが、とくべつ期待もしませんでした。彼には(彼女には)きっと用事があったんでしょうし、他人の用事を盗み見するというのはあまり趣味の良いことではありませんから、そのうちにどうでもよくなりました。
人間も、カエルも、お祭り騒ぎの喧騒も何もかも、消えてなくなった。私は、天涯孤独のような気分を楽しんでいるのでした。
音もない。
風もない。
それから、時間もない。
いつかまで感じていたあの暑さも、強烈な陽射しもなくなりました。世界は忘れ去られて、私はひとりぼっちでいることにうっとりしているのです。
音がなくなったおかげで、胸のなかでブラームスを思う存分、響かせることができました。
時間がなくなったおかげで、私は疲れも、空腹も、眠気も感じずに、すぐれて心地の良い体調を知ることができました。
私は歩きつづける。ひと気のない、しらない石畳の路地を。
そして、袋小路にたどり着きました。レストランと、居酒屋と、草の生えた空き地と、何かのお教室の看板のさがった、心もち傾いたブロック塀とに囲まれた袋小路です。行き止まりか、と思って引き返そうとしたとき、私は、ハタと気がついたのです。
引き返すとは、いったいどこに?
私は、どこから来たかもしらないのに。
そう気づいたとたん、私の胸の中のブラームスは、ピタッと演奏を止めてしまいました。耳のうしろに汗が流れはじめ、体調はすこぶる優れないものになりました。辺りを見まわしても、相変わらず世界はただガランとしていて、開いていない店の玄関は知らんふりのまま。
舞い上がった傘は赤い、無数の花びらになって泳いでいましたが、しだいに消えてなくなりました。
石畳に視線を落とすと、すっかり乾いたその道の、街灯に弱々と照らされて、白いこと。白いこと。
それから、カチャカチャと食器の当たる小気味の良い音。換気扇のまわる音。居酒屋やレストランが、開店の準備に忙しくしているようすが、石畳の上に転がり出てきます。向こうの方からは、お祭りから帰るひとびとの楽しそうな声が聞こえてきます。
突風も、大雨も嘘のように、街はもとの姿に帰ったのでした。ほんの少し、雨上がりの湿った空気だけがぼんやり残っています。だれかの家の軒端から、チョンチョン滴が落ちています。雨どいの穴の下には、小さな水たまりができている。
私はそこに、一匹の雨ガエルを見つけました。手のひらに乗りそうなぐらいの、そのみどりいろの小さなカエルは、私の方をチラッと見たあと、まるで決まった時間に行かなければならないところがあるひとのような意思を持った背中を見せて、ピョンピョン跳ねて行ってしまいました。
私はまた商店街を抜け、小さな太鼓橋を渡り、宵の風に当たりながら家路に着きました。